昭和45年10月13日 十三日会



 神も喜び氏子も喜び、金光大神もの喜びじゃと仰る、そういうおかげにならせて頂かねば金光様の御信心のいわゆる理想的なおかげということではないと思うですね。神も喜び氏子も喜び、それを取り次いで下さる金光大神も喜んで下さるようなおかげ、そういうおかげを私は頂きたい。私は今朝からね、こういうようなお夢を頂いた。火事があったらしいです。まあ、大きな商店街。
 そいでその火事の後を整理するために、まあ、汚れたり焼けたりしたような商品を安売りするその売り出しらしいんです。それで私はその市場のような、デパートの中を通って見ていると成る程乱雑にこうして置いてありますけれどもね、それがひとつも安くないわけですよね。言うなら火事と云う事の、そのなんていうですかね、まあ、汚れたようにして実際はインチキしてるわけですね。
 とにかく客寄せにとにかく火事で汚れた物をやすく売りますと言う看板を出して、実際はよくない商品をどんどん売っておると言うような私、感じ。これは買いたい物はひとつもないていと思うてね、そこを通り抜けさせて頂いたんです。したら通り抜けたところにですね、一見こじんまりな店があってね、これは木彫品ばっかり売っておるんですよね、たとえばあの、私は大体プラスチック類の道具が大嫌いなんですよ。だかあらもうお粗末なもんでいいからほんとな物が好きなんです。
 それで、ところがそういうその、もう一切がおひつでもお盆でもね、全部その、なんかいろんな木で作った物やら、木で作った物を店いっぱいに飾ってあるわけですよね。ほほう、これはなかなか今頃にしちゃ珍しい品物だな、これは本物ばっかりていと私は思いよりました。いわゆる今まで知らん物を見てきておるところへ、そういうその物があったから、これは本物だなと思うておる夢でした。
 それで誰かおらんのかなと、ご主人はおらんのかなと私は思うて、見たところが、そこの横のちょっと小高いところに店番しとる人が何と秋永文男先生ですもん、ああら、あんたいつの間にこんな事始めたのと、いいえ預かりもんですけんで、もう売れてん売れんでんよかちゅうごたふうな恰好しとりますもん。店におらなとなりどんおるとじゃ。してこれは預かりもんじゃから。
 まあ、自分のもんじゃなしととじゃけん、ちゅうごとあるふうでもう、まあ留守どん頼まれそりゃあるもんかい、あんたしっかり・・と言うところで目が覚めた。私はそれをどういう風に、わたしはあの頂いたらよろうかと思うてね。今朝からもその事をお話ししようと思うと思ったけれども、お話の付けようがなかった。そしたら只今の時にねあのいま私が御祈念する前に、あの沢山の松茸のお供えを頂いた。ね、
 だから私は、久富先生に早よお供えしてからもう直ぐ頂かなならんから、お祭りまでおかれんから早くお供えしなさいと云うて、お供えさせてくださいましたでしょう、今。ね、そしたらね御神前でね、それこそま、こじんまりとですけど梅林を作るというて、今日はあそこに梅の木の移植があったんです。その模様を頂くのですよね。ありゃもうこの村内の方が、どうでも金光様にお供えしたいちもう、うちはもうどんこん植えどこのなかけんでちゅてから・・・・?が分りますよ。
 あの氏子は間違いがない、とたとえば神様の御神意が動くところ、貫ぬくというてもだから焦点が間違うてはいけないと云う事が分かる。そしてその先にです、人徳を得よとおっしゃっておられます。人徳を、いわゆる神徳を、そして人徳を兼ね備えていくと言うところにです、・?借りもの、だからいつ取り上げられるやら分からんちゅう。教祖様がね、生神様のように言われなさる、生神様、生神様と申し上げる。
 本当に金光様は生神様になられたと、大変なことだとある御信者が申したときにね、私とてもいつ神様からお暇が出るやら分からんとおっしゃった。と言う程しにですね、御神徳というものは確かに借り物。いつ神様からお暇が出るやら分からん。いつ神様が取り上げなさるやら分からん借り物なのだ。その借り物をです、忠実に大事にです、文男先生がいわゆる神様から預かった。これを言うならばです、本当に自分が預かっとるそこの支配人と思うてです、もっともっと大事にね。
 それを上の空のような所を頂いた。これは結局、今までの信心ではそれでよかった訳ですね。それでおかげを頂いた。それで給料はもらいよった。ね、ところがね、最近の信心はね、それに願いをかけて行かなければいけない。ね、しかも昨日あたりのご理解を頂いておりますとね、今日は昨日のご理解が有り難かったちゅうてみんなが言われる。どげんとこが有り難かったのちゅうたら。
 一心の真で願うという事が有り難かったちちから、そげなことなら今までと同じ事じゃないのと何人かに言いました。一心の真で願うちちから、一心の真ちどげなこつのち、一心の真を捧げて願うじゃったろうがのと私は言います。一心の真を捧げて願わなければ駄目なんだ。このように素晴らしい、プラスチックでもなければ今のごまかしのもんでもない、本当なものを商わせていただく程しのそういうものを今。
 文男先生頂きよるとばってん、まだ預かりもんちゅうような感じだから店番なせんなよそどんむきよる。もしもしちゅうてから、はいち言うて出てくるくらいなこっちゃ。これではいかん、これを本気でね、願うという気になる、私をそこの御用に使うくださいという願いになってくるとです、疎かに出来ない。そういう信心がこれから合楽の信心にかけられるんだと私は思うんです。
 これはなら文男先生がそういう意味では代表的ですからね。いわば何というですか、陰でこそこそちゅうと悪いですけれど、よい言葉で言うと陰徳を積むという感じなんです。ね、もう誰も知らん。只神様だけが知ってござる。もう親先生だけにしか知らん、とこつこつとやっていきよるんですよね。これは感心します私も。けどもそれで受けたおかげは、なんとはなしにまだ借り物だと。神様からいつ取りあげられるやら分からんゆうごたあるふうに思うとるもんじゃから。
 まああんまり身を入れてないというのが今までの信心。だからこれに身を入れていくという事はね、いわゆるそこのように私を使うて下さいと言う願いなんです。そういう私はね。ひとつ一心発起をここに求められておるときですから、それをなら。昨日のご理解から頂きますとですね、一心の、ね、真を捧げての願い。そこから初めてほんとなものが生まれてくる。言うならば松竹梅的なおかげになって来るのじゃないでしょうか。ここに近い将来、小さいここに梅林が出来るするならばですね。
 今までは桜の花の信心が濃厚であったのが、ね。梅の木に切り替えられるのですから。大変な難しいことだと思いますけれどもね。そういうとにかく信心は辛抱する事が一番大切でございますと、言うのが金光様のお言葉なんです、ね。昨日の朝のご理解の後に、久留米の佐田さんがね、おかげは和賀心にあり、おかげは和賀心にありとこう頂くわけですね。ところがが昨日はね、おかげは太い心にあり。
 おかげは太い心にありちいただかっしゃった訳です。だからあおの結局太い心におかげは頂けれる。だから太い心を頂かせていただく為にですね、私共が信心しなければやっぱり太い心になろうと思うただけではなれんのです。そこの精進をね、お互いがどのようにさせて頂くかと言ったようなことをね、今日のひとつのテーマとでも言うかね、いうなら焦点にして共励を進めてお出でられたらよろしいと思いますな。
   どうぞ。